水の都 しゃんどらんど

水の都での日常を記していきます。

8.「だから私は怖いのかもしれなくて」

「あのさ、『子どもがほしい』ってどんな気持ちなの?」

「あんたそれ、私に聞く? 私、デキ婚よ?」

 

 

 

 

 

野暮用があって区役所に行くことになった。田舎の区役所とは辺鄙なところにあるため、母親が車で送迎してくれることになって、書類手続きの待合時間にそんな話を振ってみたのだった。

 

「うん、それはわかってる。でも、その、ほら、欲しかったか欲しくなかったかで言えば、欲しかった?」

「うーん……まあ、家が自分で朝ごはんを用意して一人で学校に行くとか、夫婦喧嘩の後片付けをしてから学校に行くとかそんなんばっかだったし、漠然とサラリーマンと結婚したい気持ちはあったね。それで、あんたにも兄ちゃんにもしてやったけど、土日に公園に遊びに行くとかさ。あー、あとあんたの場合は欲しかったね。一人じゃなくてもうひとりほしいと思って、だったらあんまり育児期間が長引いてもしんどいだけだから、年子は無理でも近い年齢で産もうと思ってた」

「そっか」

「どうしたの」

「いや、お兄ちゃんはデキ婚だったとしてもさ、私のことは欲しくて産んだんだろうと思ってたから、それってどんな気持ちなんだろうって知りたくって」

 

 

ガランとした区役所内に声が響かないように、極めて気をつけながら会話を続けた。

私の手は行き場がなくてもそもそと指をこねくり回していた。

 

 

「私は、働きたくて、子どもがほしくなくて。だって、私はその、一般的な、大学を卒業して働いてってみ、道をふ踏めなくて、ちゃんと育てなくて、清く正しく美しくなれなくぅって」

「普通の道を通れなかったってことね」

「……そう。そうなの。だから、そんな自分の子どもがほしいと思えるわけがなくて」

 

 

吃音にまみれた私の声を母は丁寧に拾い上げてくれた。

そして、静かに話を聞いてもくれた。

 

 

「でも、子どもって、好きな相手の遺伝子も入ってるのよ? それで相手にすっごく似てる子が産まれたら、めちゃくちゃ可愛いー!ってなるかもしれないじゃん」

「私が好きなのはその人なんだから、そこに私の遺伝子なんて要らないよ。そんなの邪魔でしかないし、万が一私に似たりしてたら、……。『産んでみたら変わるよ』なんて言う人はいるけれど、人の命だよ? もしも好きになれなかったら、愛せなかったら、どうするの? 私はそんな責任能力ないよ」

「まあー……そうねえ。たとえば、割り切って保育園幼稚園に入れて働くとか、お金に物を言わせてシッターさんとか家事手伝いの人を雇うとか、そういうふうにして子どもと距離を置く時間を作るって方法もあるよ。専業主婦はしんどいよー、四六時中子どもと一緒だからね。それで参っちゃうこともあるわけだし」

「……そういうのもあるね、たしかに」

「それに、あなた自身の体調もあるでしょ? 病気が安定してから考えても良いんだし、必ずしも今考えないといけないことではないでしょ」

 

 

私は黙り込んだ。そうか、現実には子育てを応援してくれるサービスもあるのか。

……でも、そのサービスが私の代わりに子どもを産んでくれるわけじゃない。

私はどこまでいってもネガティブ思考だった。

 

 

「産むのも、怖いのよ。私、ずっとずっと男の子に産まれたかったって思ってた。だって、使いたいとも思っていないのに子どもを産む機能が備わってて、それに伴った排泄があるんだよ? そんなの、不公平だと思わない? 『こどもがほしい』『じゃあお前が産めよ』って話じゃない?」

「近い未来はそうなるかもねー。まあ、確かに子どもを授かると体は変わるし、元に戻らないからね。私、あんたのときはつわり酷かったし」

 

 

カラカラと笑いながら母は言う。私は申し訳なくて俯いた。

そんな私の姿を見て息をひとつ吐いた母が一言。

 

「というか、今そんな話してて大丈夫? あんたが出したの、婚姻届だけど」

 

 

 

 

 

私があなたを選んだのは、あなたが夢を見させてくれるから。

たとえば、クリスマスに高級なディナーに連れて行ってくれるから。

たとえば、百貨店に行ったらデパコスを買ってくれるから。

たとえば、毎日顔を見ては可愛いとふにゃりと笑いながら言ってくれるから。

 

きっとその夢から覚めたくないからあなたを選んだ。

あなたとのつながりがほしかった。

「私と彼は絶対」だって思いたかった。

それは、壊れてしまった「絶対」に心を砕かれたことがあるからだ。

一人の夜に「絶対」の終わりを想像しては、ひゅっと呼吸を乱して泣いた。

そんな夜をもう迎えたくないからあの日、私は少し酔っているあなたに婚姻届を差し出した。

拒否されたらどうしよう、と、「絶対」の終わりを想像して涙をこらえながら書いた婚姻届を。

 

 

 

 

「風俗行ったって報告されたくないの? それともした上で謝罪してほしいの?」

「しないでほしいよ! されたくない! だって、言わなかったら無かったのと同じじゃん、真実にならないじゃん」

「謝罪は身勝手よね。私はキャバクラくらいなら何が嫌とかないけど、さすがにジーパンまで香水をたっぷりつけて帰ってきた日はふざけんなよと思ったわ」

 

 

タイヤを滑らせ帰宅した。家で仕事をする父に婚姻届が無事に受理されたことを報告したら、おめでとうと言われたのでありがとうと返した。

私はディスプレイに向き戻った父の後ろ姿を見ながら、「もしかしたら父も母も、お互いが不倫していることを知っていた上で知らないフリをしていて、それでこの家は成り立っているのかもしれない」と考えていた。

なぜなら、私は母が浮気していたことを知っていたからだ。

 

 

 

 

 

きっかけは些細なことだった。まだ中学生だったとき、親友とメールをするのに母の携帯を借りていて、あるとき母が携帯を置いたままにしていたので、親友とのメールを見返そうと開いた。

今思うと、プライバシーの観点が欠けている恐ろしい行為だったと思う。

受信箱を開き、いくつかメールを遡る。ガラケーの画面の下半分にはメールの本文が写り込んでいて、知らない人の名前を飛ばしつつ親友の名前を探していた。

ふと気になった。誰だろう、この頻繁にメールをしている「野原 実」って。

男か女か区別のつきにくい名前に眉をひそめて、そろりと母がいないことを確認してメールを開いた。

 

 

『ルリちん大好きにゃ😺💕』

 

 

「……だれ?」

 

 

母の名前に気持ち悪い愛称をつけて、ハートマークを添えたメールが何通も何通も出てきた。

思わず私は送信ボックスを開いたが、母が送ったメールは数少なく、中身は冷静なものだった。

しかし、一方的にこの男が好意を寄せていると考えるほど私は純粋無垢ではなく、それから隙を見つけては母の携帯を覗き見るようになった。

 

 

ある日、また懲りずに母の携帯を見ていた私は、甘ったるい文章とともにぬいぐるみを持って水着で自撮りをした写真を野原実に送信しているメールを見た。もう心は動かなかった。

 

その後も私の知っている既婚者とメールをした形跡を見つけて、私は母の携帯を覗き見るのをやめた。