水の都 しゃんどらんど

水の都での日常を記していきます。

私は遺書の書き方を知らない

苦しいな、と思いながら手を動かす。文字を打つ。絶え間なく絶え間なく日本語を入力していく。もしもこれが手書きのものであれば、時間はもっとかかっていたのだろうと思う。

 

私の現在の住まいはマンションであり、最上階の6階に位置している。しかし6階というのはかなり中途半端で、飛び降りても生き残ってしまう可能性がある。難しいな、と思い冷たい風が頬を撫でるベランダから、26℃に設定された暖房の利いている自室に戻る。私は寒いのがかなり苦手だが、ベランダに出るのは好きだ。

我が家の目の前には公園があり、毎日誰かしらが思い思いの時間を過ごす。それは小学生であったり、おじいさんおばあさんであったり、中学生であったり。過ごす時間もそれぞれだ。学校終わり、早朝、昼ごはん時、夕方、深夜。たとえば仕事に飽きたときや行き詰まったとき、カーテンをめくって鍵を開ければいつだって公園はそこにある。誰もいないときは、それはそれで静かで良い。

 

 

文章が完成したら、少し時間を置く。そして改めて読み返してみて、誤字脱字がないかを確認しつつ、説明が足りない部分を補足していく。これが少し難しくて、書きすぎてもくどくなるし、だからといって簡潔すぎても読み手に伝えたいことが伝わらなくなってしまう。伝えたいことをいい塩梅で書くのは難しい。難しいけれど楽しい瞬間でもある。十分に推敲ができたら投稿する準備をして、投稿する。場合によってはそれを印刷して、郵送することもある。最近は郵送が多い。この記事以前に投稿されている記事を見てもらえばわかるが、私は最近ずっとブログを書いていなかった。理由は特になく、書くことがなかったからだ。

 

ところで昨日、Amazonで注文していた、「完全自殺マニュアル」というのが家に届いた。

 

これはタイトルこそ自殺示唆を想起させるもののその実書いてあるのは「死ぬことがいかに難しいか」ということである。

たとえば、私が先程「6階というのはかなり中途半端で、飛び降りても生き残ってしまう可能性がある」と書いたものも、確かこの本から学んだことであった。もちろん、インターネットの海をさまよっているときに6階から飛び降りたけど死ねなかった人を見て学んだ部分もあったけれど。

この完全自殺マニュアルを買うのは2回目で、特に失くしたとかではなく取りにいけない場所に置いてきてしまって読み返せなくなったので買い直したのだ。上記したとおり、この本には自殺の難しさがかなり詳しく記されているため、何も今すぐ自殺をするために買い直したわけではない。いや、いずれは自殺という形で人生を終えようと考えているけれど、それはもう少しだけ先の話。最初に買ったときは読み物として隅々まで読んだものの、自殺の方法が多すぎて大部分は忘れてしまった。よって知識を再び取り入れようと思い、思っていたときにはすでに商品カートに入れており、即日配送されていた。

 

 

その昔、これは確か高校生のときだったが、高校から帰宅すると、自室のクローゼットに隠しておいたBL漫画が母の手によって本棚にきれいに収納されていたことがあった。気まずすぎて母にその話は出来なかったため、私の所持していたBL本を発見したときどう思ったのかは未だに知らないが、完全自殺マニュアルが私の部屋にあるのを発見したらさすがに何か言及されてしまうかもしれないな、と思っている。まあ、隠す気もなくデスクの隣の本棚に普通に並べているのだけれど。

 

 

かくして、無事に完全自殺マニュアルを入手した私は、これから時間をかけて丁寧にこの本を読み、自分が一番良いと思った自殺方法でこの世を去ろうと考えている。先程も言ったが重ね重ね言うと、私が命を手放すのは今すぐではなくもう少し先の話である。

 

そこでふと思った。私は遺書の書き方を知らないと。

 

しかし、こんな内容の薄い記事を書くだけでもそれなりの時間と文字数を使っているのに、遺書なんか書いた日には自伝くらいの分厚さになるのではないだろうか。幸いなことに交友関係は広くないが、深く長い付き合いの人はそこそこいるので、その人たち全員に伝えたいことを全部書くのは厳しいだろう。だとすると、書くのは自分が死ぬ理由のみだろうか?

 

 

そもそも、死ぬことに理由は必要なのものだろうか。人は生きている以上いずれ死ぬのだから、自殺も自然と捉えられないのだろうか。うーん、でも私も知人が自殺をしたと聞いたら悲しくてつらい気持ちになると思うし、何か悩み事があったのであれば打ち明けてくれれば一緒に悩むことができたかもしれないのにと後悔するだろうし、そう考えると寿命を全うするのとは違って、納得し難いことかもしれない。そして、私が死にたがっていると心配して連絡をくれる稀有な人も幾人かいるので、その人たちに後味の悪い思いをさせるのは本意ではない。しかし死にたいときは死にたい。このへんの折り合いってどうつければ良いのだろうか。私にはまだわかりそうにないことである。

 

 

とりあえず、今のところ5人くらいには私からの最期の言葉を読んでもらいたいと考えている。でも、聞きたくも見たくもなかったら無理にとは言わない。だって、私が一方的に残す言葉でしかないのだから、そんな義務はない。

 

 

何が言いたいのかかなりまとまらない文章になってしまったが、簡単に言えば、私に生きて欲しいと思っている人たちには「安心してくれ、まだ準備ができていないので私は死なない」。私に死んで欲しいと思っている人たちには「安心してくれ、準備さえ終わればいつだって死ぬ」。……というあたりかもしれないな、と思った。