水の都 しゃんどらんど

水の都での日常を記していきます。

形の無い処方箋 ─「愛」について①

この記事は自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2018の25日目の記事です。

 

最初に注意事項ですが、こちらの記事は誰かが救われるものでは無いことはもちろんのこと、読んだ人のほとんどが気分が害するものになると考えられますので、人の書いたブログを楽しみたいという方は24日目までの記事を読み返すだけに留めることを推奨します。そもそもこのアドベントカレンダーは、私がこの記事を書きたいがために立てられたようなものですので。

 

それでも読みたいなんていう物好きなあなたには、聖夜にふさわしく、私の「愛」についての話をお送りしたいと思います。では、良いクリスマスを。

 

 

1. 愛の定義

出典:デジタル大辞泉(小学館)

  1.  親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「愛を注ぐ」

  1.  (性愛の対象として)特定の人をいとしいと思う心。互いに相手を慕う情。恋。「愛が芽生える」

  1.  ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する愛」

  1.  個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への愛」

  1.  キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー

  1.  仏教で、主として貪愛 (とんあい) のこと。自我の欲望に根ざし解脱 (げだつ) を妨げるもの。

 

 

 この記事における「愛」の定義はどれに当てはまるだろうかと考えたが、おそらくどれにも当てはまるしどれにも当てはまらない。都合の良いときに都合の良い定義に当てはまるだけなので、不定形というか生モノというか、そんな形だろうか。とりあえず、そんな感じであるとだけ認識していてもらえれば。

 

2. 親について

 2-1. 幼少期について

愛を語ることにおいて、最も身近で、私が誕生する前から私という存在を愛してくれていた両親の話をしないわけにはいかないだろう。私は「女の子がほしい」という両親の希望でこの世に生を受けたらしい。お望み通り、身体は女性として生まれてきた。しかし、両親の望んだそれとはかけ離れた性格と性質に育ち、現在を迎える。

両親に愛されている自覚はあるが、愛されエピソードのようなものを多く語ることはなかなか難しい。最近で言えば、退学することを認めてもらい、その際、学籍はあれどもう大学には通っていないから11月からの仕送りは要らないと伝えたところ、かなり戸惑われ、どちらにせよ3月までは仕送りをする予定だったから送る、と言われた。大切にされているのだなと他人事のように思った。

今思うと、私は幼少期からどこかおかしかった。定期的に登園拒否をし、泣きわめいているところを母親と先生に抱っこされてバスに乗せられて幼稚園まで輸送される、という感じで。私が登園拒否をする度に母親は先生から「何か幼稚園に嫌なことがあるんでしょうか?」と聞かれていたらしい。あとは、お遊戯会や運動会だったか、両親が幼稚園に顔を出すイベントがあると連れて帰ってと泣き喚いていた。親が好きだったのかと聞かれると微妙なところで、おそらくは本来極度に寂しがりなのが、幼稚園は作業や友達の存在などで忘れていたところ、両親という無償の愛を注いでくれる存在を思い出して刺激されて爆発していたのではないかと思う。幼稚園児の心理なんかわからん。

そんな幼少期も終えて小学生になり、途中まではそれなりにうまくやっていた、と、思う。兄と殴り合いの喧嘩をしょっちゅうしていた賜物なのか、私は球技が得意ではないけれど力でゴリ押し出来るところがあって、クラスの男子と朝早くに集合しては校庭で勝負をしていた。夏になれば蝉取りに明け暮れた。女子からも何故か人気があって、「しゃみちゃんは私と遊ぶのよ!」「いーや、私達よ!」みたいな取られあいも発生していた。理由はよくわからないけれど、なぜだか好かれていた。嫌だと言う私を物理的に引きずって外に連れ出してくる女の子すらいた程度に。

 

いつからだっただろうか、私はスカートを履かなくなった。そして、髪の毛も短くして男の子のような格好をするようになった。4年生くらいだろうか。両親は特別咎めもしなかったが、私はこの頃女の子らしい服装というものを忌み嫌っており(それは他人が着用している場合には適用されず、もっぱら自分が着るということが苦痛であったという意味である)、小学校の卒業式にも、周囲の女の子が華やかなブレザーとスカートのような格好をしている中、自分ひとりだけは黒いジャケットに疑似ネクタイを締めて半ズボンという格好で出た。両親からは渋られたが、結局私が言うことを聞かなかったため、それに落ち着いた。過去の写真を掘り返すと本当に男の子のようで、店員さんから「僕」と声をかけられたこともあった。それが何だかたまらなく嬉しかったことは覚えている。

また、よく覚えているエピソードとして、小学校4年生くらいの頃に仲良くなり、気も合って家も近かった、というか実家が隣同士だった女友達がいて、私はその子のことを強く守りたいと思っていた。男性のような立ち振る舞いをして、彼女の側仕えのようになりたいと思い、七夕の日、短冊にそのようにを書いたことを覚えている。彼女は優しく、そしてあまり自我の強く無い子だった。その自我の弱さから断るということも苦手としていて、そこがまた私の庇護欲を掻き立てていた。今思えば、私はこの頃からすでに女性を「弱さ」の象徴、男性を「強さ」の象徴と捉えていたのだろうと思う。そうでなければ、わざわざ"男性のように振る舞って"彼女を守ろうとはしなかっただろう。

 

「泣いたら許されると思って」という思想が大嫌いだった。言う側でも、言われる側でも。私は感情が激しい上に、度の過ぎた怒りを覚えるとすぐに涙が出てきてしまう方だったから、特に。こと女の子と喧嘩しているとき、相手が泣き始めると話も聞かれずに自分が悪者にされるのがとてつもなく嫌だった。だからこそ、私は「泣いたら許されると思っている」なんて思われたくなくて、震える声を、溜まる涙を、垂れる鼻水を必死に堪えて、怒りにパワーを全振りして、泣かないようにしていた。私は弱くない、戦える、と。それが激しくなったのが中学生のときで、それから数年、私はまともに泣くことができなくなった。

 

 2-2. 中学時代について

中学時代が最も思い出したくない過去な気もする。が、思い出す。このエントリはメンタルをリストカットした上で前に進むためのものなので。

中学校に入って、私はソフトテニス部に所属することになった。小学生のときから太っているのがコンプレックスだったので、運動部に入りたいと思い、学校にあった部活の一覧から消去法で余ったのがそれだった。これが結構過酷だった。1年生は基本的に体力づくりと言って走り込みや雑用ばかり、上級生への礼儀や挨拶などもして当然。形だけで言えば普通のことのように聞こえるが、目が悪くてよく見えず、本当に相手が先輩かどうかもきちんとは読み取れない距離でも、その上他学年の教室のフロアであり知らない人がうじゃうじゃいるような場所であっても、大きな声で挨拶をしなければならなかった。気がついていないフリをしても先輩側が気がついていればあとでお呼び出しをくらい、「あのとき無視したよね? なんで?」と詰問されて、謝罪の後に走り込みをさせられた。決まった時間内で走りきれなければ、もう1周追加といった具合で。すぐに消失してしまったが、一時期、先輩2,3人と後輩2,3人のグループを組み、グループ内の後輩が他グループの先輩に挨拶をしそこねた場合、グループ内の先輩とともに後輩が走り込みをさせられるという制度も出来た。一度私はやらかし(ぼけーっと壁に寄りかかっていた際、先輩が眼前を通ったらしいが、正直本当に意識が彼方に飛んでいたし、私と先輩の身長差は10cm以上あったため、私の視界に先輩は映っていなかった)、グループの先輩を走らせることとなったりもした。今思うと、挨拶というのは人間関係を良好にするためのものでもあるはずなのに、連帯責任として後輩に罪悪感、先輩に嫌悪感を負わせるこの仕組みはなんとも矛盾しているものだ。その上、1つ上の先輩陣はほとんど挨拶を返してくれず、よくてこちらに手を振る、最悪な場合だとこちらに目配せをした上でシカトする、というような具合だった。ブラック企業の研修か何かかな?

そしてそんなことが大変だった時期、同時に、同学年の中ではいじめが起きていた。というか、2個上は人数が少なかったから仲が良かったが、私達の学年も1つ上も人数がそこそこいて、喧嘩からいじめに発展するようなことはザラにあった。私も無事にいじめを受ける側の一員になっていた。理由は意味不明で、同学年の間で体育用のズボン(1年生がジャージ類を着るのは先輩から生意気だと思われるため、私達は練習中体操着だった)をずりおろす、というのが流行っていて、それをされないようにズボンの紐を結んでいたら「つまらない奴」として認定され、容姿や行動を徹底的に揶揄された。意味分かんないよな。他のみんなはハブられるのが怖くて紐を結んでいなかったけれど、同学年の中のボス(一番口が強くて誰も勝てなかったため、みんな彼女の言いなりだった)はそれを良いことに男子から見えるところで思いっきりズボンを下げ、下着を公開された子もいた。今考えると当時よりぞっとするような話だと思う。

当時の私はショートボブだったため、髪型を「ヘルメット」と言われ、聞こえるようにヘルメットヘルメットとからかわれていた。他には、部活のときの声出しの言い方を複数人で真似されたり、好きでもない男子のことを好きだと噂され、本人にまで伝えられたこともあった。どうして耐えていたのかよくわからなかったけれど、私にとって部活は辞められも休めもしないものだったので(休むと休んだ理由をボスから詰るような態度で聞かれていた)、なんとか耐えていた。人よりも学内での成績が良いことさえ「優等生(笑)」なんていう揶揄の的だったし、何をしても駄目だった。幸いなことに、クラスに別に仲の良い子がいたため、そこを拠り所にしてはいたが、上述した小学生の時に私が守りたかった子は、ソフトテニス部でボスに屈し、密かに私の陰口を叩いていたりもしたため、友情は崩壊した。知った経由といえば、他の子から手紙で「○○ちゃんがしゃみちゃんのことを『塾の話しかしなくてつまらない』って言ってたよ」と知らされたことであり、今であれば手紙の主を訝しむところであるが、当時の私は口数の少ない彼女を少しでも楽しませたいと思って塾での出来事の話をしていたため、ひどくショックだった。ショックで彼女と話せなくなり、しかし彼女は私がそれを知っているという事実を知らない上、人の目(彼女は朝が苦手なため、よく私が家まで迎えに行っていた)もあり、無言で一緒に登校する日が続いた。そのうち、私が急に話さなくなったことを彼女がボスとその取り巻きに話し、私が吊るし上げられ、彼女からは「明日からあの人達と一緒に学校に行くことにしたから」と電話口で告げられた。彼女の家とボスたちの家はかなり遠く、登校するには遠回りなため、私が彼女を迎えに行っていた日々は何だったのだろうと思った。でもちっとも悲しくはなくて、なんでだろう、すっきりとした気持ちだった。私は彼女の気を引けなかった、それだけである。

そうこうしているうちに私はいじめのターゲットから外れ、比較的平和な日々を過ごしていた。いじめのターゲットは数ヶ月単位で変わっていたため、3年もいれば不思議といじめられていた側の人間のコミュニティが出来上がっていた。弱者のコミュニティだ。私は最初こそそちら側にいたが、そのうち、ニコニコとして穏やかに怒らず、ノリもよくしていたらボスたちから目をつけられなくなったため、どっちつかずにフラフラしていた。塾での成績は芳しくなかったが、塾の人間関係は学校に比べれば良好だった。それでも、発言力の強い人間はどこにでもいるものだと感じたけれど。

 

書いているうちに思い出したことがひとつあって、それは、何かが大きな問題になって(本当にもう覚えていないが、顧問を変えるだとかそんな話だった気がする。カエルの子はカエルというのはよく言ったもので、ボスの親もボス気質で、今思うとモンスターペアレントもいいところだった)保護者たちが呼び出されて会議がなされたあと、うちの母親が他の保護者に、「うちの子はいつも帰ってきてから着替えもせずに1時間くらい部屋に籠もってぼんやりとしている。いつかベランダから飛び降りるのではないかと心配していた」と発言して黙らせたというようなことを母から言われた。そこで初めて、自分が帰宅後に虚無の時間を過ごしていることに気がついたし、思い出してみると、ストレスを受けたあとにひとりで虚空を見つめて無になるのは今でもやっていることなので、私の精神のアラートなのだろうと思う。飛び降りるだなんて考えたことのなかった私はキョトンとして、自分はそんなことをしていたっけかと思っていた。

 

部活の方は、学年が上がっていくうちにいざこざはあれど引退してからはスッキリと離れられて、あとは塾と親への反抗期がマックスだったということくらいだろうか。塾でも男子と仲良くしていた私は、女子たちに呼び出され、特に仲の良かった男子の名前を挙げられて、あいつしゃみさんのこと好きじゃない?どうなの?なんて話をされて困ったくらい。友達としか見ていなかった人のことをそういう風に挙げられても困惑するばかりだったし、何よりも、当時の私は「男は女を好きにならない」なんていう致命的な勘違いをしており、だからそれは絶対に無いだろうと否定をした。しかし、否定を繰り返せば繰り返すほどに彼女らの話は盛り上がり、私はとてもやりにくくなってしまった。奇しくも、私が「男は女を好きにならない」というのが勘違いなのだと気付かされたのも、その特別仲の良かった男子が原因だった。

 

受験に関して、私は母校への受験を決して譲らなかった。両親および兄は、私がもしも公立高校に落ちて私立高校に入学した場合、私のことはおろか、兄のことを大学にやる金も無いから、ランクを下げて確実に受かるところに行け、と。兄も大学には行きたかったのか、反対してきた。私は兄ほど頭の出来が良くないと言うか、言ってしまえば脳みそはポンコツなので、志望校判定で母校がC以上出ていた記憶が一度も無いし、滑り止めの私立高校も取れていて半額免除くらいだった。私はこの家族会議のとき、母校の願書を目の前に、涙ながらに「私はどうしてもこの高校を受験したい、ここで諦めたら、もしも大学に行けたとしても、この先一生後悔する」と訴えた。結局、両親が折れてくれて、兄は無言で、母校の受験を許可してもらえた。私の受験を止めたのも、最終的には承諾してくれたのも、両親の愛に他ならないだろうと思う。私の実力に見合った高校に行かせること、身の丈に合わない無茶をさせないこと、子供2人ともを大学に行かせたいこと。自分は祝福されて生まれてきて、愛されているんだなあと、思う。

運命が味方してくれたようで、受験は成功した。しかし、私はこの先、気持ちだけでは補えない自分の欠陥や、自分がこの時点ですでに"なりたいもの"というのを見失っていることにはまだ気がつけていなかった。これに気がついていたら、まだ何か変わったのかもしれないけれど、中学時代の部活の面々を彷彿とさせるため、どうしても中学の人間がいる高校には行きたくなくて、その事実が母校への憧れをことさら強くしていたと思う。事実、私の代で母校に受かったのは、私を含めて5人で、全国レベルの試験の平均点を中学校全体の平均点が平気で下回るような中学では、「5人も受かる(おまけに受験した人間も5人であった)なんて奇跡だ」と騒がれていた。私は自分がそのうちの1人であることを誇りに思っていた。自分が井の中の蛙にすらなれていないことを心のどこかで理解した上で、その事実から目を逸しながら。

結果的に、何にも代えがたい友人を手に入れることが出来たため、その点だけでその他の汚点を凌駕出来る程度に、私はあの高校に行ってよかったと思っているけれど、他の人生があったのであればそれも気になる。そこに幸せはあったのかな。

 

 

 2-3. 高校時代について

さて、うきうきわくわくどきどきで始まった高校時代。最初の実力テストは下から数えて100位以内だった。おまけに教室には男子の方が多く、みんな元気が良かったり、女の子はとても可愛い子がたくさんいたりして、私はしばらく机とにらめっこしているだけだった。運良くクラスの可愛い子が「全員にあだ名をつけたい!」と言い始めて、そのおかげで隣の席の子と話せるようになった。とても気のいい子で、洒落も効いていて一緒に居て楽しかった。あとは、不思議とクラスの女子全体が仲良く、移動教室もその場にいる子誰でも一緒に行けるくらい全員が付かず離れずだったため、本当に過ごしやすかった。特によく覚えているエピソードとして、ホームルームの時間に大きなハチか何かが教室に入ってきて、クラス内、特に女子が大騒ぎになった。私は特段虫が苦手だったわけでもなかったし、ハチは外に出たいようで教室の一番上の窓にゴツゴツと体当たりしていたため、少し背伸びをして一番上の窓の鍵を開け、窓を開けて逃してあげた(女子高生の平均身長を考えると、教室の一番上の窓の鍵なんて台も無しで届くはずはないが、私は男子高校生の平均身長くらいあったので届いた)。すると、クラス中の女子たちから「かっこいい!」と喝采を浴びた。恥ずかしかったが、嬉しく、その出来事もクラスの女子たちとの親交を深める一端になったと思う。そしてその後、"しゃみ"というニックネームをもらうことになる。つけてくれたのは私の誰にも代えがたい友人のうちのひとりで、ありがたいことに今でも彼女は私のことを溺愛してくれている。本当は「みーしゃって呼ぶね!」と言われていたのに、次の日いきなり「しゃみ!」と呼ばれ後ろから肩に抱きつかれたときは困惑したけれど。彼女が私に"しゃみ"という名前をくれたから、今でも私は私であるのだと思う。その時その瞬間から、私は、他の誰でもなく、「しゃみ」になった。そしてこれから先も、しゃみであり続けるのだと思う。

 

  2-3-1. 初めての告白について

高校1年生の時、恋をした。ハズレくじで参加した係の長が、ともかくド級に好みで、目を奪われているうちに心も奪われてしまった。さて、物理的に心臓がドキドキと高鳴ったり、胸が苦しくなってご飯が食べられずに体重が減ったりした恋が初めてだった私は、恋心の容量がいっぱいになって、本人に気持ちを伝えた。なんとラブレターで。奥ゆかしすぎて泣きそう、まあ実際は相手に連絡先を聞く勇気もなくて(というか相手が携帯持ってなかったし)、下駄箱にラブレターを入れるのってなんかこう……良くない?みたいな思考で、七夕の朝に人目を忍んでそっと下駄箱にいれておいた。学籍番号を書いて、返事はこの下駄箱に入れてください、と添えて。一体何時代の話なんだと書いていて思うが、まあ、結果から言えばフラれた。付き合えると思っていたわけではなく、それこそ高嶺の花みたいなものだったから分不相応であったけれど、それでも、運命が私と彼を結んでくれるのではないかなんてロマンチックなことを考えていた。王子様に恋した灰かぶり姫は、今日も救われないまま床を拭く。なぜなら、現実には魔女なんていないのだから。けれど、王子様は優しかった。私にこれからも友達でいようと言ってくれて、パソコンのメールアドレスを教えてくれたのだった。恋に敗れたものの、自分の気持ちを伝えられただけで満足した私は、その後もしばらく用事につけてはこそこそとメールをした。

王子様に恋をしてから、私は変わった。日常生活には差し障りない程度だった視力に満足できず、いついかなる時も彼を見つけたくて、眼鏡を常にかけるようになった。それと、用もないのに彼がほぼ毎日利用しているからという理由で、学食に顔を出すようになった。そして、髪型に気を使うようになった。といっても、化粧も眉毛の手入れも禁止の高校で出来ることなんてたかが知れていて、せめてもの地味さを緩和するための二つ結びは毛量の多さもあって不格好で、今思えば無駄な努力だった気もする。それでも、毎日が楽しかった。楽しいクラスに、恋しい人がいる場所。早起きだって苦痛ではなかったし、テストの点数も学内順位も着実に伸びていっていた。キラキラしていた時代だったな、と思う。そして、私が恋をした誰かに告白をするのも、これが最初で最後だろうと確信できる。その後、私は、知りたくなかったことを知ってしまうから。

 

 

  2-3-2. 初めてされた告白について

そういえば、これも冬の話だっけ、なんて見出しを打ち込んでから思い出した。私は冬が大嫌いだ。嫌なことが起こるとすれば、必ず冬だから。

 

『君も(とある女性の名前)と同じか。私はあなたが好きですよ』

 

12月中旬に私がもらった初めての告白の文面は、これだった。私はテンパッてテンパッて、彼氏のいる友人にメールをし、どう断ればいいかを相談した。まあ、そもそもの経緯を話すとしよう。

告白してきた彼とは、中学時代からの友人だった。厳密に言えば幼稚園の頃からの知り合いのクラスメイトで、塾のクラスが同じになり、知人と混ざって歓談をしていたら、彼もよく喋ってくれるようになった。そして同じ高校に進学することが決まり、顔なじみの少ない高校で、彼と同じ部活だった女子が私と同じクラスだったというのもあってか、彼はしばらくうちのクラスによく顔を出していた。冬が近くなってきた頃、彼から恋愛相談のメールがきた。どうして私なのかとも思ったし、相談された当初は「男の子って女の子を好きになるんだ」と驚いた記憶がある。相談にのっていると、彼にはふたり好きな女性がいて、どちらに告白をするか悩んでいる、という旨の相談で、私は真面目にのっていた。結局彼は彼自身で選択をし、告白をし、フラれたらしい。フラれた、という連絡がきた。励ました。仕方ない、だとか、ありきたりな言葉しか送れなかったと思うけれど、それでも、大事な友人だと思っていたので、精一杯の言葉を送ったと思う。もうあまり覚えてはいないけれど、それまで異性から好意を寄せられたことのない(厳密に言えば私のことを好きだった人だとか好きっぽいなみたいな人はいたけれど、実際にそれを口にされたことはない)私にも、なんだかおかしく思える話の流れになってきていた。あれ、この人は確か、つい1週間ほど前に別の女性に愛の言葉を送って、折られて落ち込んでいたのではないのだろうか、と。なのにどうして、彼は今、まるで私に好意があるかのような文言をひたすら返してくるのだろう。

 

『でも、きみが好きなのは、彼女なんでしょう?』

 

確信を突いた私の言葉に返されたのは、上記した内容だった。

そして、友人からもらったアドバイスの通り、『あなたの気持ちには答えられないれけれど、好きになってくれて嬉しかった。これからも友人でいてほしい』というような内容の返事をした。しかし、彼のほうの反応は芳しく無く、付き合わないのであれば自分たちの関係はそこまでだ、と言われた。私は大切な友人を失いかけていることに至極焦り、なんとか彼を説得していた。今思えばなぜそんな理不尽な人間を失うことが怖かったのかわからないけれど、変化が苦手な私は、「彼という友人がいなくなる」という変化に耐え難い恐怖を覚えた。なんとかして彼の気持ちを沈めた私は、彼とまた再び友人に戻れることになった。彼の方も友人でいたいと言ってくれて、私は安心した。……どこから間違っていたのか、私にはわからないし、思い出せない。

 

友人と、前日に明日は一緒に帰ろうと約束をしたりするだろうか。いや、私はしないな。そう思った。でも、彼はする。絶対ね、約束だよ、と言った。そして、毎晩「おやすみ」とメールをくれた。くれたのだ。友人が。

嫌だとはっきり感じたのは、クラスメイトから彼と付き合っていると勘違いされたときだった。付き合ってなんかいない、私と彼は友人だ。私には好きな人がいたし、彼が私のことを好きであることは勝手だと思ったけれど、私が彼に好意を持っていると思われるのは心外だった。だから、彼にそう伝えた。彼は悲しげに、『私たちはそんなんじゃないのにね』と言ってきた。あとから友人に聞いた話だけれど、この頃彼の携帯電話の受信フォルダには、私専用のそれが作られていて、すべて保存されていたらしい。友人ってなんだろうな。

1年くらい経ったのだろうか、彼が他の人を好きになったと聞いて安心して友人として接していた。すると、友人から「彼がまだあなたのことをやっぱり好きだと言っていた」と言われた。友人は、彼の異常なまでの私への執着心に忌避感を持っていたらしい。私は心底がっかりして、そうか、どうしようか、と考えた。考えても答えは出ず、「声が聞きたかった」と理由で電話がかかってきたり、毎朝モーニングコールをされたりもして、一時期着信音を聞くだけで心拍数が上がり、膝が震えたりもしていた。あとは、どこに行くにもおみやげを買って、休日であればわざわざ自分の両親に車を出してもらって家の下まで来られて渡されたりもしていた。数年間、人からの贈り物が怖かった私が、欲しい物リストを提示して恥ずかしげもなく乞食出来るようになったのは、実は多大なる進化の結果でもあるのだった。結局8ヶ月くらい彼からの好意アタックは続き、私には初めての彼氏ができて、いつの間にやら彼は私に興味を失い、というか、なんか滅茶苦茶冷たくしたら折れたようで、彼氏が出来たのも知ったからかもう何もしてこなくなったと思う。漠然と、生きることに疲れてきていたのはこのあたりからだったと思う。

 

 

 

 

 

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第一部は高校時代前半までにしようと思っていたけれど、それすら書き終わらないまま1万文字を超えてしまった。知り合いに「もっと簡潔に書けばいいのに」と言われたけれど、まあ、2桁年台生き延びてきた記憶を完結にまとめるなんて、寂しくないはですか?

まあ、本当に本当はこのアドベントカレンダーだけで完結させるつもりだったけれど、無理も甚だしかった。1週間前から書き始めても同じ結果になったと思う。読む側も飽きちゃうからね。

気まぐれだから続きを書くかはわからない、なんて虚勢を張りたいところですが、心のうちではこんな話誰も聞きたくないんじゃないかと思って不安がっている自分が大きい。勇気が出たら、続きを書きます。

 

ラインナップとしては、

 

・高校時代に受けた悪意について

・高校時代の恋愛について

・大学に入ってからの生活と元恋人について

・現状

 

くらいになると思います。おそらくは2部構成ですら完結できないと思いますが、まあ、盛大な遺書のようなものなので許してほしい。

こんなところまで読んでしまうような物好きなあなたなら、私が不意に死んだあとも私のことを覚えてくれているのでしょう? ありがとう。もう少しだけ生きるから、だから、私にここから先を書く勇気と、承認欲求をください。おねがいします。

 

 

 

生存戦略、選んでくれてありがとう。

地獄で会えたらキスしてね。