水の都 しゃんどらんど

水の都での日常を記していきます。

安いコンタクトレンズは目に痛い

もともと使っていたコンタクトレンズ、ワンデーのもので、左右1箱ずつ(30個入り)を買うと6,000円を越えていて、正直出費がつらかった。不器用なので入れるのに失敗することもあって、なおさらつらい。

使い放題みたいなプランもあるようだけれど、それはそれでコスパが悪そうだったので、試しに安めのやつを買ってみた。同じ量で、送料込みクーポン適用したら4,000円ちょっとくらい。これがなんとまあ、入れた瞬間目がひどく痛む。ハードのコンタクトってこんな感じなのかなと思うくらい。5分もすれば痛みは引くし、以前使っていたコンタクトのように視界がぼやけることはないけれど、代わりに目の乾きが少し気になるようになった。どうやら、以前のコンタクトを使っているときの謎の視界のぼやけは、水分量の多さにあったらしい。

やはり、高さには高さなりの理由があるんだなと実感した。私は目に傷が入っているせいで目が乾きやすいため、そこらへんいい感じに折り合いをつけていきたい。コンタクトレンズ探しはまだまだ続く。

 

 

 

 

最近改めて、人と人はわかりあえないものだと感じている。悪い意味ではなく。(もちろん良い意味でもないけれど)

どちらかと言えば、だからこそ人は人を尊重していかないといけないんだよな、と思っているくらいには前向きな感情。例えば、私はあまり家族とうまくやれていないほうで(ここについては完全に私が悪い)どんな必要に迫られようともう実家暮らすのは無理だと思っているけれど、家族が大好きで実家に帰りたいと思っている人はいる。私はそれを否定しようとは思わないし、否定的な感情も湧かない。むしろ、良いことだなくらいに思う。逆に言えば、私だって家族とうまくやれないことを責められるいわれはないし、親不孝者だと非難される必要もない。そういうものだと思う。

 

 

本音を語ることと本音を語らせることの難しさも感じる。本音を語る/語らせるというのは、「言いたいことを言う/言わせる」ことであって、「言いたくないことや言わないほうがいいことを無理やり言う/言わせる」ことではない。酒が飲める年齢になると、その力を借りて本音で話す、飲みニケーションみたいなものもあるが、どうやら私にはそれは最適解ではないようで、うまくいかなかった。

確かに、お酒を飲めば勢いで心の底に隠していたことを言うときはあるけれど、私の場合は言えるようになるまで飲むと泥酔直前くらいになる。しかも、例えば感情ひとつの話をするにも、そこに自分なりの理屈なんて添えられなくなるし、オブラートに包むこともできなくなってさながら暴力のように相手を慮ること無く言葉をぶつけてしまう。次の日思い出すと、とても嫌な気持ちになる。黙っているのよりも話すことのほうがつらいからと飲み込んでいたことを吐き出してしまうのは後味が果てしなく悪い。

 

それでいて、肝心なことはひとつも言えていないのだから、もう笑うしか無い。お酒が入るとむしろ、言いにくいと思っていたことを「死んでも言うか!!」といった具合に尚更強情になってしまうフシもあるっぽい。強情さにパワーを持たせてどうするんだ。

うまくいく人はもちろんいるし、「飲みの席だから」という理由で流せるという利点もあるけれど、結局次の日記憶が曖昧で、言ったことも言われたことも覚えていませんでは虚しいし、難しい。自分が飲みすぎない程度に留めておけば悪くはないのかもしれない。もしくは、自分一人で感情を整理したいときにはそれなりに適していると思う。落ち着いてお酒を飲むと、余計な感情が剥がれ落ちて、自分でも気がついていなかった感情がシンプルな姿で現れたりもする。

 

 

そもそも、あまり人と喋ることが得意じゃないというのもある。おしゃべり、好きだけど得意じゃない。特に、自分がやりたいこととか、やりたいと思った理由とか、心に踏み込んでこられる質問をされると、誰が相手でも本当に心が苦しくなるし、うまく答えられなくなる。答えはある。でも、話せない。外に出られない言葉が口の中で転がり、舌の上で横たわる。

 

クズの本懐」という漫画で、絵鳩早苗は「自分のことは死ぬまで自分だけが知っていたらそれでいいじゃない」と言った。そのとおりだと思った。自分の本当の気持ちは他人に知られなかったとしても、自分だけが知っていればそれでいい。それで、いい。

しかし、それは私だけの都合であって、知りたいという思いをないがしろにするのも身勝手な話である。「知りたい」と「知られたくない」がぶつかりあったとき、どう折り合いをつけるべきなのか、私にはまだわからない。

 

 

ぼんやりと考えていてけれど、おそらく、私が「何になりたいのか」「何を望んでいるのか」「何をしたいのか」などの質問をされてひどく苦しくなってしまうのは、そこに自己肯定的な前提が存在するからではないだろうかと思う。漠然と、「優秀/有能な人間になりたかった」と感じることはあるけれど、その希望には「自分という個体には到底無理である」という反実仮想的な意味が含まれている。これに気がついたとき、なんだか妙に胸のあたりにストンと落ちたように感じて、納得した。自分が自分であることを認めること、自分が自分以外の何者にもなれないこと、自分は自分の枠を広げは出来てもはみ出しは出来ないこと。まず自分に必要なのは、そんな至極当たり前な事実を認めることだったらしい。

この年齢になって今更こんなことに気がつくの、とても恥ずかしいことだと思った。同時に、この年齢でまだ自己肯定ガーとか自分が嫌いダーとかそんなことを無意識とはいえ持ち合わせていたことがそれなりにショックだった。中高生が言っていたら、それはそれは可愛いものだけれど……。折り合いをつけられたと思っていたことが、心の隅の方に沈み込んで見えなくなっていただけでそのまま残っていたというのは、なんとも物悲しい。

 

明日は、今日の私が見て、かっこいいじゃんと思える自分でありたい。